更新日:2023年8月13日
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戦国時代の薩摩は、島津本家の力が衰え各地で戦乱が続く下克上の時代であった。伊作島津家(島津氏の分家、吹上地域南部を領有)10代当主島津忠良(日新公)は、島津本家15代太守になった息子の貴久を助け、争いを治めるために奔走した。忠良と貴久は、島津氏の分家で実力者の島津実久との争いに勝ち、弱体化した本家を建てなおした。忠良の業績は後々まで高く評価され「島津氏中興の祖」と称された。忠良の孫で、伊作(吹上地域南部)で生まれたとされる義久・義弘・歳久・家久の兄弟は、三州(薩摩・大隅・日向)統一を果たし、その後は九州各地の戦国大名と戦い、一時は九州のほとんどを制覇するほどの勢いであった。次男義弘は朝鮮出兵、関ヶ原を戦い、兄義久とともに島津本家を支え、明治維新まで続く薩摩藩の基礎を築いた。
忠良から始まった流れは、島津氏を戦国大名として大きく飛躍させた。江戸時代になってからも、義久・義弘・歳久・家久の子孫は日置と深く関わり続けた。
伊作島津氏の本拠地として造られた山城。忠良や、義久・義弘らの兄弟が生まれた。面積が40万平方メートルにもなる南九州でも屈指の巨大な山城である。当時の面影をよく残している。
臨済宗伊集院広済寺の末寺で、伊作島津家の菩提寺である。歴代領主や島津忠良の両親、忠良の娘の墓などがある。江戸時代になってからも歴代藩主によって厚遇されたが、明治2年の廃仏毀釈により廃寺となった。
義弘の弟家久の墓がある。家久は佐賀一帯を支配した龍造寺隆信と島原で戦い、これを討ちとり、島津氏の九州制覇に大きく貢献した。秀吉の九州出兵の際にも善戦したが、秀吉に降伏した直後に急死した。
家久の息子豊久の墓がある。豊久は父の死後は叔父の義弘と共に行動し、朝鮮出兵にも同行した。関ヶ原の戦いで義弘を守り戦死した。残された家臣は永吉に移り、永吉島津家を興した。豊久以後の歴代領主の墓もある。
義弘の弟歳久の墓がある。兄らと共に三州統一や九州制覇に活躍した。島津氏が豊臣秀吉に降伏した後も、秀吉に反抗を続けたことから、秀吉から死を命じられ自刃した。孫の立久は日吉地域北部を領有し、日置島津家を興した。
もとは妙円寺という寺院で、義弘が自分の菩提寺に定め、自らの木像をおさめた。妙円寺は廃寺になり、その跡地に義弘の木像をご神体とした徳重神社が造られた。江戸時代から続く伝統行事「妙円寺詣り」が行われている。
貴久と忠良が、島津実久との抗争で奪取した。貴久は伊作城から一宇治城に移り、本拠地とした。義久・義弘らはここで青年期を過ごした。フランシスコ・ザビエルが貴久に会見したとされている。
天文8年(1539)に、貴久と実久の最終決戦が行なわれた。この城をめぐる戦いの後に実久は降伏、貴久は名実ともに島津本家の太守となった。宣教師のザビエルやアルメイダが訪れた。
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